それは實に根本的なことだった。この者の文章は、實感と言葉とが乖離してゐる。つまり、言葉が大げさなのだ。例へば、何かと新しい發見をする度に、すぐ「○○をすることはもう一生ない」「これまでものは全部捨てる」と、潔く言ひたがるのである。
發見といふ感動を語るのに、いちいちそんな宣言をする必要などないのだが、なぜわざわざそんなことをするのか。彼が過去を大げさに否定してかかるのは、結局新しい發見を際立たせ、絶賛したいがためだと氣がついた。
こんな輕薄な宣言など、後に臆面もなく撤回されるに決まってゐる、と思ってゐると、案の定、易々と前言が撤回される。この者の言ひ譯は、容易に想像がつく。かつて否定したあるものが、また新しい發見となったに過ぎないのだ、と。
しかし、物事を本当に見極めたければ、どうして、思想が實生活によって打ち破られることを繰り返す、その複雑怪奇な己自身に眼差しを向けようとしないのか。
物事の本質を見極めたやうなそぶりを見せながら、要するに彼は「俺、こんなことがわかる人間なんだぜ」といふ自己絶賛とその宣傳をしたくてたまらないのだ。その爲なら、大げさな自己否定のジェスチャーなど朝飯前だ。もはや、過去を否定しては一時も生きられないであらう己の姿に氣付くこともなく、孤高の自稱音樂家として、自己欺瞞を續けて生きるのだらう。
何年もかかったが、やうやくそれが見えてきた。彼の心は子供のやうに鋭敏だが、彼は決して心の豊かな人物ではない。彼との生身のやりとりで、相當に不愉快な思ひをさせられることが多々あったのも、それで納得が行った。
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