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自分自身で試奏して、またプロ奏者の方々に試奏して頂いて、アマテュアのユーフォニアム奏者の樂器選びについて色々と考へさせられるところがあった。(以降アマテュアの話)
ユーフォニアムを購入する場合、「先生が選んだものを買ふ」といふのは別として、「ベッソンのこの音色」「ウィルソンのこの音色」といふ風に、まずは音色の好き嫌ひでブランドを選ぶケースが多いのではないとか思ふ。そこに「音程」「ダイナミクス」などのコントロール加減や、総合的な吹きやすさ(發音や音抜けなど)などを加味して最終決定していくやうに思ふ(そして、音色に特にこだはりがなければ、コントロールのしやすい「ヤマハ」を選擇する)。
ところが、ADAMS を吹いてゐると、ベッソンやウィルソンのやうな「ああ、この響きだ」といふものを感じない。それなのに響きに不満がない。間違ひなくユーフォニアムの「よい響き」がするのだ。
そして、レスポンスの良さに驚くはずだ。まづ、發音が早く、クリアだ。とかくこれまでのユーフォニアムは反應が鈍い。このためにほんの少し早くタイミングを取る癖がついてゐる人は、かなり動揺するのではないかと思ふ。
さらに、きちんと息を入れて、フィンガリングのタイミングさへ合ってゐれば、一つ一つの音が樂に鳴り、細かい音符や跳躍のフレーズもコントロールが可能だといふことがわかるはずだ。従來「これみよがし」にエアやリップをコントロールして、「吹けてゐるような感じ」にしてきた方は、今までの苦勞は一體何だったのかと思ふに至るだらう。音程やダイナミクスのコントロール、フレージングが思ひのままになっていく快感は、「豊かな音色主義」に拘泥せずに、「では何をどう表現するか」といふ新たな(しかし音樂として本質的な)欲求を生み出すに違ひない。
どうも私達はこれまでユーフォニアムの樂器としての機動的な問題點を、「豊かな音色」と引き替へにごまかしてきたやうな氣がしてならない。自分がやるにしろ、プロ奏者の演奏を聽くにしろ、速いフレーズがぎこちなかったとしても、跳躍が無理矢理に繋げられてゐたとしても、指をバタバタ動かし、吹き込んで無理に樂器を鳴らして、なんとなく凄いことをやってゐるやうな氣にさせれば(なれば)それでいいのじゃないかといふ、そんな甘えはなかっただらうか。
結果、「音楽を奏でる」のではなく「樂器を吹く」こと、「音樂を聽く」のではなく「音を聞く」ことばかりに一生懸命になって、丁度田舎者がブランド品で無理に着飾ったり、高いコスメでどぎつい化粧をしてゐるやうな、素材ばかりに目を向けてセンスを磨かないアマテュア・ユーフォニアム奏者(私も含め)を氾濫させたのではないかといふ危惧を抱いてゐる。
ADAMS の登場は、今までの「音色」の好みを基準にした樂器選擇、そして演奏を、根底から覆しうるユーフォニアムの誕生と言ってよいのではないかと思ふ。
私はどちらかといふとプロフェッショナル向けのインストゥルメントという印象を持ってゐた。しかし、「樂器を吹く」樂しみから「音樂を奏でる」樂しみを見いだしうる樂器であることに氣づいてからは、むしろ心あるアマテュアに大いに勧めたい樂器だといふ思ひがしてゐる。