バンドジャーナルが發刊50周年となるやうだ。先日、27年前のバンドジャーナル臨時増刊号を4冊入手した。丁度私がユーフォニアムを吹き始め、吹奏楽に夢中になってゐた頃のものだ。
こんな懐かしい廣告も 懐かしく讀みつつも、ユーフォニアムの採り上げられ方が、今とは随分違ふといふことに驚いた。このような雑誌は、各樂器が、まんべんなく採り上げられる筈だが、ユーフォニアムの項目がなく、テューバの項目に書かれてゐたり、ユーフォニアム奏者のインタヴューだけがなかったりと、「あぁ、さういへばさうだった」と、當時中學生だった自分の心境を思ひ出した。吹奏樂の雑誌を買っても、ユーフォニアムに關する話題に乏しかったため、やむなく他の樂器の記事も、何かユーフォニアムに生かせるものはないかと、貪るように讀んだものだった。
雑誌だけではなかった。當時はユーフォニアムの音源も、國内では數枚しか發賣されてはゐなかった。それも、「一枚全部ユーフォニアムのソロ」などといふものではなく、LPレコードにわずか一曲のみ。やむなく、他の曲も貪るやうに聽き、ユーフォニアムが目立ったり重要な役割を担ふ曲(C.カーター、A.リード、F.マクベス、C.ジョヴァンニーニ、A.カウディル、L.フォースブラッドの作品など)は、カセットテープに移し、テープが延び延びになるまで繰り返し聽いたものだった。
あれから30年近くが過ぎた。吹奏楽や管楽器の雑誌に、ユーフォニアムの話題が載らないことはないし、テューバと同じ項目にされることも、もはやない。大手CDショップの吹奏楽コーナーには、ユーフォニアムのコーナーがあり、インターネットを使へば、内外の素晴らしい演奏の音源を今すぐに入手することも出来る。
ここまでに至るには、日本のユーフォニアムの地位確立ために、プロユーフォニアム奏者の方々の、筆舌に盡しがたい御苦勞が積み重ねられてきたのだと拜察する。古い雑誌に載ってゐる、今や大御所・中堅のユーフォニアム奏者の方々の、若々しい御表情の寫眞を眺めつつ、感謝の思ひでいっぱいになった。
勿論、歴史や各國の樂器に對する情報が、十分に得られない状況下(また、歴史への探求が、ある意味「ほどほど」で済んだ状況下)で書かれた記述には、今や明らかに間違ひと認められるものも數多くあるのだが、これを責めたいとは、私は全く思はない。歴史を裁くなど、ジャンケンの後出しのやうなものだ。むしろ、それが今も「正史」「正論」であるかの如く廣まってをり、何か新しい發見があっても、プロアマを問はず受け容れられなくなってゐるやうな怠惰な精神にこそ、問題があると思はれてならない。
以上のやうなことを思ひながら、僭越ながら、これからの日本のユーフォニアム界は如何にあるべきなのか、といふことに思ひを馳せずにはゐられなかった。
レパートリーは増えた、聽く機會も増えた、勉強する場も増えた、海外の樂器の情報も掴み易くなった、歴史に關する文献にも辿り着き易くなった。もはや、量を從へて、質に目を向ける時代になったといふことだらうか。
勿論プロ奏者の仕事内容に、私が口を挟むべきではないのだが、一ユーフォニアム愛好家として、希望を述べるくらゐは許されてもよいのではないかと思ふ。
1.「單に奇麗な音、正確な音程とリズム」に終はらないパフォーマンス。音程がうはずったり、音が荒くなったり、すり切れさうになったりすることも、感情の表現としてコントロールできる、人間的なパフォーマンスの實現。
2.ユーフォニアムの歴史や各國の樂器、樂曲に對する探求と、正確な知識の傳播。見せかけや、勢ひや、縄張り爭ひではない、ユーフォニアムのアイデンティティーの、眞の確立。
1.は、ユーフォニアムを演奏する奏者(ユーフォニアムを專門に演奏する奏者に限らない)にしか成し得ない大仕事である。2.は、日本では、これまで主にプロのユーフォニアム奏者にその役が求められてきたが、必ずしもさうでなくてはならない、といふ理由は何處にもない。他の奏者であらうが、學者であらうが、アマテュアの愛好家であらうが、樂器を全く知らなかった者であらうが、正確かどうかが問題なのである。「まぁ、人それぞれ考へ方がありますからね」と、生徒や後輩からはぐらかされてゐる御方は、要注意といふことだ。
Copyright(C) 2009 岡山(HIDEっち) (PROJECT EUPHONUM http://euphonium.biz/) All rights reserved. 文章・画像の無断転載厳禁 | Posted at Apr.24 00:07
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ユーフォニアムの歴史と研究
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