私達は(いや私は)事實の前にひれ伏すことよりも、とかく獨自と思ってゐる考へや、當たり前と思ってゐる思想に拘泥しやすいものです。しかし、そのやうな考へや思想といふものは、事實であるかどうかといふことよりも、自分がさう思ってゐるといふ點にしか、根拠がないのです。恐らく私が取り組んできてゐることとは、まづは事實の前にひれ伏さうとすることです。そこから、自分が拘泥してきたものが見えてきます。さうして初めて自分が獨自と思ってきた考へや、當然と思ってきた思想が疑はしくなってくるのです。不完全で無責任であった自分が分かってくるのです。
無論、それで私が完全になったわけではありません。まだまだ分からないことだらけなのです。そして、ああさうか、と分かりやすいときほど注意が必要だと、少しは思ふやうになってきました。
そのやうな私の態度が、いい氣分で解説をしてゐる(してきた?)人には厄介に映るやうです。しかし私が知りたいのは、やはり事實なのです。そして物事を本當に知りたいのなら、わかりやすい解釋も説明も不要で、ただ、事實の前にいつでも土下座する心こそ、最も肝要だと、ますます思はれるのです。
「世の中で自分だけがわかってるなんてことは、さうありゃしないんだ」(「麻雀放浪記」より)
