「音樂のない人生など、味氣ないものだ」といふのも、格好いいとは思ふが、大げさなやうにも思ふ。私が生まれたこの世には、私がどう生きようと、音樂があるので、自分の人生に音樂がないといふことなど、假定しやうがない。つまるところ、「味氣ない」と言っておきながら、その言葉が空想の域を出てゐないやうに感じられるのだ。
音樂に少しばかり踏込んだお陰で、私は愉しい人生を過ごしてきたし、辛い思ひもしてきた。音樂を生業として眞當に携はって來たわけではないが、全人格を否定されることもあったし、消えてしまひたいといふ思ひも體驗した。街中で突如として脳中に蘇る響きに、鳥肌が立つ思ひも、最早日常のやうな感がある。してみると、私の人生と音樂は、切っても切り離せないもののやうに感じられてくる。私にとって音樂は、職業でも趣味でもなく、切實な體驗なのだ。その、放っておけば時と共に薄れゆくやうな記憶を、なんとか形にしようと、言葉を選んでゐるように思ふのだ。形のない記憶に、姿を與へようとしてゐるのかもしれない。何の爲、誰の爲でもなく、己が生きる爲にさういふことをやってゐる。
何の爲、誰の爲と、大聲で叫び、呼びかけながら、結局は自己の滿足を充足させる事に躍起になってゐる人も少なくはない。もし、私の言葉が、讀者に音樂や學問や人生を考へさせるきっかけとなったのであれば、それこそが、人樣の役に立てた、數少ない、私の人生の功績なのだらう。それは、その表現する媒體が何であるかといふやうな、輕薄な話ではあるまい。己の心に何が突き刺さったのかといふ、退引きならぬ體驗こそが、己を動かす。それで十分だ。
同じ意見を持つ者と寄り集まって(或いはある意見を強制して)、それに相對する意見を愚弄する、そんな趣味は私にはない。徒黨を組むことこそ、私が一番嫌惡し、警戒してゐることだ。
