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一體ユーフォニアムとはなんぞや? 何を以てユーフォニアムとするのか。この問ひは、やはり私の心から離れない。
日本では、「ユーフォニアム」と言ふと、まづ、ベッソンやウィルソンやヤマハで製造してゐるユーフォニアムを想像する。これは、各國でもそのやうだ。渡獨の際、軍樂隊員から「俺もユーフォニアムに憧れを持ってるが、ドイツの軍樂隊ではバリトン(ドイツ式)を使ふんだよ。これはしやうがないね」と聞いた。つまりこの場合の「ユーフォニアム」は、アップライトピストン式で調整はB♭、アップライトベルで・・・って、要はベッソンやウィルソンやヤマハで製造してゐるユーフォニアムのことだ。ドイツの奏者はバリトン(ドイツ式)を「ユーフォニアム」とは言はなかったし、私達の知るユーフォニアムをバリトンとも言はなかった。ドイツの樂器屋もさうだった。フランスのテューバ吹きもトロンボーン吹きもさうだった。各國のプロ奏者は、それぞれの特性を彼らなりに理解してゐる、といふことに私自身驚かされた。
一方、例へばプロ奏者の深石さんが、このバリトン音域の樂器を、全てユーフォニアムと括らうと努力されてゐた。しかし、私が思ふに、深石さんも相當に惱んでをられる。誤解を招くといけないので言ふが、私は樂曲におけるパートとして、日本でユーフォニアムと便宜上で括るのは、別段問題がないと思ってゐる。
もとより私が各國の樂器を分けたがるのは、アンチユーフォニアムではなく、各國の樂器の、微妙な音色の違ひ(特性)によるものであって、その微妙なところに各國の音樂の姿を感ずる、音樂的體驗に基づく。もしその姿が、一つの樂器に集約できるものであるなら、その他の樂器の用はなくなって、消えて無くなる筈のものだ。用があるから、今でも製造されてゐる。私は、さういふ自明のことを、樂曲(CDや自分のつたない演奏)に觸れて體驗しつつ、くどくどと書いてゐるに過ぎないのかも知れない。
従って、持ち替へなどしなくても、私達の言ふユーフォニアムといふ樂器一本で、作曲者が命を削って生み出したその音樂を表現できるなら、それは全く構はないことだと思ってゐる(このことは何年も前に、プロ奏者の外囿氏が東フィルで演奏した、マーラーの「交響曲第7番」
私のやうな人間は、凝り固まったマニアックで頑固なオヤジのやうに見受けられるだらう。それは別に構はないが、各國が大事にしてきた音色やキャラクターがあるといふことを感じてゐるのは、私だけではあるまい。かくあるべき、といふ殻から這ひ出して、己の切實で狭い體驗から、より廣い世界(後述するやうに、廣ければいいといふものではない)に目と耳と心を向けていきたい。もっともっと愉しい人生が創造できるのではないか。
己を缺いた、廣い見地から集約しようとすればするほど、事實は離れていくものではあるまいか。私と貴方だって、共通するものはあるけれど、同じ人間ではない。集約するなら、「サル」とは違ふ、「ヒト」であるといふのが、せいぜいのところだらう。「ヒト」と付き合ふのは面白くとも何ともない。私は「人」とお付き合ひ出來るのが、何よりの愉しみだ。
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