私は、「セルパンやバスホルン、オフィクレイドの音色や用法からすると、テューバよりもむしろユーフォニアムに近い、しかし実際にはテューバが採用され、オーケストラの定席を得た」といふ意味のことをこれまで書いてきた。これについて、「ユーフォ吹きの独善的解釈」あるいは、「希望的観測」と評された。
どうしてそのように読まれてしまったのか、腑に落ちないし、非常に残念に思った。
これまで、わづかながらかもしれないが、セルパンやオフィクレイドのソロや合奏の実演、そしてオーケストラにおける用法などを辿ってきた上で、今まで抱いてゐたこれらの楽器のイメージや言説が、ずいぶん異なることを、感動と衝撃を以って知った。その経験の上で、これらの演奏には、テューバよりもユーフォニアムが適してゐたはずだと考へたのである。
実際にイギリスではユーフォニアムがオーケストラの最金管低音楽器として、編成に組み込まれ、その後、E♭バスがテューバとして採り入れられている事実があると、またフランスでは、ご存知のとほりフレンチテューバ(C管のサクソルンバス)が長く使はれもした。これらは、歴とした事実であり、私の独善的解釈でも、希望的観測でも断じてない。
しかし、結果として、ユーフォニアムではなく、あの大きいテューバが採用されて行ったのは、金管低音楽器の役割が、オーケストラの中で変化して行ったが為だということも、以前に記した(「ユーフォニアムがオーケストラにないのはなぜか?」)。
私は「元々の低音金管楽器の役割からしたら、ユーフォニアムが相応しかったはずだ」といふ判断と、その後の役割が変化したことによって、大型のテューバが採用されたのだとといふ判断を一貫して述べてゐるのであり、「ユーフォニアムが採用されなかったのはをかしい」といふ話をしてゐるのでは、断じてない。
しかも、それをユーフォニアム吹きだから、ユーフォニアムの都合のいいように事実を解釈してゐるかのやうに評されるのは、全く心外である。なぜならそれは、私がユーフォニアムを研究するにあたって、最も忌避し、細心の注意を払ってきたことである。
どうしてもさうとしか読めないといふのであれば、実に残念であるが、私の力足らずか、あるいは、さうは思ひたくないが、批判された方の認識不足による言ひがかりだと言はざるを得ない。
私と同じ意見ではなくても、私は一向に構はない。しかし、机上や思い付きや空想ではなく、まともに取り組んでから、ご意見いただきたく思ふ。せめて、まともなセルパンやオフィクレイドの実演に触れて、スコアも読んだ上でご批判いただきたいのだ。今や機会は、いくらでもある。
そんなことをわざわざしなくても、容易に想像はつく、といふ自堕落な評者にはなっていただきたくないのだ。さういふ無知なる知者によって、実に多くの誤解が巷に溢れてしまってゐるのだから。
これも経験主義に陥ってゐるなどと評されたとしたら、もはやこれ以上深い話には踏み込めまい。経験といふ言葉を…
いや、もうやめよう。
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