佐伯氏はかなりのスペースを使って、テノールテューバについて解説をしてゐたが、テノールテューバの混乱は、吹奏楽とオーケストラのテューバの發展が異なってゐたことに端を発してゐることが明瞭であった。今やテューバの方は落ち着きを取り戻しているものの、テノールテューバについては依然として混乱してゐる(特に日本において)。
佐伯氏によれば、日本ではロータリー式のテノールホルンやバリトンを「テナーチューバ」を呼んでしまってゐるところに、混乱の種があると指摘してゐる。全くその通りであるが、そこからさらに、「なぜ日本では、ドイツ式のテノールホルンやバリトンを『テノールテューバ』と呼ぶことを止めないのか」といふことを考へざるを得ない。
私はそこに、二つの大きな力が反目し合ってゐるにも関はらず、結果として同じ方向を向いてゐるが為に、抗し難い大きな力となってしまって、事實を素直に受容れ難くなってしまってゐるのではないかと思はざるを得ないのだ。
言ふまでもなく、ユーフォニアムは吹奏楽で発展してきた楽器である。しかし、ほぼ同じ時期に發明されたテューバはオーケストラの中で定席を得た。
ここに「ユーフォニアムは吹奏楽の楽器だから、クラシックの楽器として確立してゐない」といふ「批判」と「コンプレックス」とが生じたのではあるまいか。両者の立場は異なり、反目し合ってゐるのだが、結局は「吹奏楽はオーケストラより劣る」といふ感覚がそこに働いてゐる点で一致してゐると思はれるのである。
さて、ドイツ式のテノールホルンやバリトンも、吹奏楽の中で発展してきた楽器であることは明らかである。しかし、ほんの30年ほど前のわが國では、ドイツ式のバリトンやテノールホルンについては、その名称からして知名度がほとんどなかった。もっとも、ユーフォニアムにしても、吹奏楽の雑誌ですらテューバと一緒くたにされてゐた時代であり、当時ユーフォニアムを専攻してゐた奏者が、その地位の向上と確立に全力を注ぎ込んでゐた時代でもある。
そして、その当時、ドイツやオーストリアの吹奏楽団が來日する機会がほとんどなかった以上、平素見慣れぬドイツ式のテノールホルンやバリトンに日本で遭遇するのは、主に來日するドイツやオーストリアの有名オーケストラだったのではないか。R.シュトラウスなどのスコアに登場する「Tenortuba」のパートが、有名オーケストラにおいて、ロータリーヴァルヴを備へた見慣れない楽器で演奏されるのを目にし、あれが「テナーテューバ」なのだ、といふ印象を与へたことは想像に難くない。
その当時、不幸にしてそれらの楽器の名称がきちんと説明されることはなかった。I.マルケヴィッチの指揮で、N響が演奏したラヴェル編の「展覧会の絵」では、ビドロのソロを山本訓久氏がテノールホルンで演奏してゐたが、NHK教育放送の「N響アワー」では、氏のソロが始まるや、「ワグナーテューバ」とテロップが挟まれてゐたのは、そのいい例である。
ユーフォニアムを「吹奏楽の楽器に過ぎない」と批判する者、一方でユーフォニアムの地位の向上と確立を望む者との間に、この「テナーテューバ」は大いに役立つ。
ユーフォニアムを「吹奏楽の楽器に過ぎない」と批判する者は、「あれはテナーテューバという楽器で、吹奏楽のユーフォニアムとは全然別の楽器だ」と思ひ、吹奏楽に対するオーケストラの優位性を保たうとする。
ユーフォニアムの地位の向上と確立を望む者は、「テナーチューバはオーケストラの中で発展した楽器だ。オーケストラが盛んなドイツでは、吹奏楽でもこの楽器が使はれてゐる。だからそれはユーフォニアムに該当する」と独自の歴史解釈をやってのけ、ユーフォニアムもオーケストラにおける地位があると主張する。
ドイツ式のテノールホルンとバリトンとを一律に「テナーチューバ」と頑なに呼びたがるのは、かうした反目しあってゐる両者にとって好都合なのではないか。
實際のところ、かういふことを書き記すのは勇気がゐる。間違ひなく両者から嫌はれるからである。しかし、面子に関はって歴史からそっぽを向かれるよりは、私にはずっとましなのだ。
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