とある有名大學の學生にアンケートを採った。「大學生になった今、何を一番したいか」と。その回答の中に「砂遊び」といふものがあったといふ。しかも、一人ではなく數名ゐたといふのである。
大方は、過酷な受験勉強の反動と解釋しさうなものだが、私は最近、この話を思ひ出しつつ、また別のことを考へてゐる。大人になってからする「砂遊び」は、案外面白いものと感じられるのではないか、と。
大抵の大人には、そんな時間も機會もないし、また大人が砂遊びなどするものではない、といふ理性が働くから、公園の砂場が大人で一杯になるやうなことは起こり得ない。
さて、それなら、さうした機會を作り、どうぞ童心に帰って、今日は一日砂遊びをして下さい、となったら、果たしてどうなるか。
山を作り、トンネルを掘り、ある者は川を流し、ある者は高さを競ひ… 童心に帰るどころか、大人の知恵で大きなスコップを持ってきたり、果てには重機を持ち込んできたり…
一日で終はれる者は、ああ樂しかったと、かつての日々を思ひながら、手を真っ黒にして家路につくことであらう。そして、自分がかつて砂遊びから何を學んできたかに思ひを馳せるかもしれない。
しかし、一日の遊びに終はらずに、この世界から抜け出せなくなる者も出て來るかも知れない。彼らは毎週のやうに集まり、山を作り、トンネルを掘り、川を流し、高さを競ひ、スコップだ、重機だ…
もし前者が、「いい年して砂遊びかい」と言はれれば、「お恥ずかしいお話で…」と顔を赤らめることであらうが、後者がそのやうなことを言はれたら、どうなるか。たちまち「砂遊びを馬鹿にするのか」「お前はこの樂しみをわかってゐないから、そんなことを言ふのだ」と食ってかかりさうな氣がする。
いかに高からうと、いかに複雑だらうと、いかに整ってゐようと、「砂遊び」である以上は、児戯に過ぎない。これを忘れて、いかに高いか、いかに複雑か、いかに整ってゐるかに血道を上げて競ってゐるとしたら、やはり大人として異常だと思ふ。
大人には大人の樂しみといふものがあり、それは大人として成長してゐなければ、樂しめないものだ。そして、子供が砂遊びを通して成長するのと同じく、大人も大人の遊びを發見し、挑戦し、汗を流さなくては、人として成長しないのだ。
大人の樂しみをむしろ避け、いつまでも砂遊びに興じる大人の姿といふのは、私には、やはり奇異な姿に映じる。
もし吹奏樂が、「あの青春をもう一度」などといふ發想にしか集約されないのならば、それはもはや「砂遊び」に等しいといふことにならうか。
中高年層の吹奏樂團が、今後ますます増え續けることを思ふにつけ、その樂しみ方を考へさせられるのである。
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