ウィーンのオーストリア吹奏樂祭で、色々な吹奏楽団の演奏を聽いて、何とも言へない、静かな感銘があった。彼らが演奏する「美しき蒼きドナウ」や「狩りのポルカ」は、實に素晴らしい。演奏技術はともかく、カラヤン&ウィーンフィルのCDで聽いたやうな、あの雰圍氣がある。
オーストリアの一般吹奏樂團は、數々のイヴェントで演奏の機會がある。日本のやうな吹奏樂や音樂のイヴェントばかりではない。地元のお祭(勿論キリスト教の)、結婚式、葬式、お祝い事等々。我が國ではなかなか思ひつきにくいことかも知れないが、裏を返すと、オーストリアでは、これらの催しには、吹奏樂が必要なのではないかと思はれるのだ。かうした吹奏樂の活動は、學校の部活動ではなく、地域コミュニティーから始まる。この活動を續けてきた年長者が、子供に管楽器や打楽器を教へ、數々の行事で役割をこなす。
さて、このやうなものは、日本にはあるだらうか。あるある。「和太鼓」だ。ウィーンフィルの奏者が、和太鼓を見事に演奏したとしても、それは技術として立派なものを感ずるかも知れない。しかし、技術の幼稚な日本の中學生が、町のイヴェントで演奏する和太鼓には、ウィーンフィル奏者の演奏とは質の異なる、日本の味はひがある。もしかすると、優れた奏者といふのは、世の東西を問はず、その及びつかない何かに、畏怖を持ってゐるのでなからうか。
文藝評論家の小林秀雄氏が、自分がドストエフスキイを書くのをたうとうやめてしまったのは、どうしてもキリスト教がわからなかったからだ、と書いてゐた。無論、これは頭でわかるといふ類のものではない。マリア様の像が目に入るや、思はず膝を折って、頭を垂れる、さういふ生き方をしてきた人にしかわからないであらう何かを小林氏は感じ、畏怖を抱いたのではなからうか。
ちなみに、小林氏のドストエフスキイ論は、ロシア文學者の間では、タブーになってゐるさうだ。あるロシア文學者は、「皆何のかんのと理屈をつけて言ふのだが、結局、彼ほどドストエフスキイを讀んだ人は他にゐないから、讀まずに偉さうなことを言ふ學者樣は、避けて通らざるを得ないのだ」、といふことを言ってゐた。
ものの優劣ではなく、立ち入れない何かに心がときめくといふこと。それは、他國の魂に、歴史に、文化に觸れる、眞摯な態度なのかもしれない。
祭り囃子が聞こえて來ると、授業もそっちのけになるやうな我々の感覺。オーストリアの子供達にはそれが吹奏楽の響きなのだらうか。
